動物保護とマイノリティのお寺
覚了寺(かくりょうじ) kakuryoji.net
人が信じあえる社会の現実を願って〜 くすの木といちょうの木があるお寺

 

「パンク坊主宣言」
東京のカルト問題関係のお友達いわたちせいごうさん(ライターでネコ派)が、ホームページで、ステキな紹介をしてくださっています!
以下。
蓮月の著書『パンク坊主宣言』
会葬御礼

友人知人のみなさまへ

今日は 私のお葬式にお集まりくださり ありがとうございます
これまで私を励まし元気づけ 歩みを共にしてくださったこと
何物にもかえがたい人生の贈り物として
ありがたく胸にいだきながら
今私は旅立ちます
私は自分の人生に責任を持つと同時に
死後にも責任を持ちたいという想いで
私のお葬式を提言してまいりました
今日はどうか皆さんも因習にとらわれない
自分らしい送り方で私をお送りください
この世でかけがえのない自分を愛してきたから
人をも愛せたのでしょう
どうか私を語り偲ぶことで
ここを人間としての出会いの場とし
これからの生き方を真剣に語り
「信」の関係を回復していってください
私は今後「願い」となって永遠に生き続けます
ありがとう
ありがとう

           蓮月
・・蓮月さんの著書『パンク坊主宣言』から・・
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 ◆私の名前

 私の名は蓮月。俗名を藤谷不三枝といって、女の僧侶。自他共に認めるパンク・ボーズです!

 ◆私の職業

 一応、僧侶です。
 右から見ても左から見ても、逆立ちしてもそうは見えないらしいけど!
ある人などは、「藤谷さんがお坊さんやて他の人から聞いて、後ろにひっくり返るぐらいびっくりしました」と言っていました。

 世間には、いわゆる「先生」族のなかにいかにも「それらしく」見える人っているものです。宗教者、学校の教師、医者、弁護士、国会議員、作家等々。

 なぜ、「それらしく」見えるのでしょうか?
イメージどおりに自分をあわせ、それらしくぶってるからで、坊主が坊主らしく見えるのは、人を教え導こうという「教化者意識」が働いているからなんですね。

 だから、私もいつか「坊さん」らしいとか「先生」とか言われるようになったら、おしまいだなって思ってマス!
 
蓮月
 
 ◆本来の仏教、今の仏教
  
 もともと、お釈迦さんは説法、講演会をして回ったのであって、読経したのではありません。

 お釈迦さん、私は彼の個人名シッダルータ、と呼びたいですが、お経は彼の滅後200年もたってから、教えを継いだ者たちによって討議され編さんされたものですから、直接教えを聞いてきたものもいないわけですし、当然その時代社会を反映するものとなるわけで、そうすると残念ながら、その時代・社会のもっていた差別性も含まれてくると思うのです。

 だから、お経は絶対化してはいけない。

 そんなお経を、それでもまだ、中国は中国語に訳して読むわけですが、日本だけが、中国語の漢文のそのままを、音だけ拾って読むという読経をしているのですから、坊主も意味を確認して読んでいるのでもないなら、ましてや後ろで座って聞いている一般の人たちがわかる筈がありません。

 こうして坊主たちは、呪文化したお経を読み、仏教本来の姿勢でもない正座をし(武士が片足たてて刀をサッと抜ける姿勢と聞いています)、高い金で立派な信者であるとお墨つきをもらう「院号」、お葬式の時に白木の位牌に書かれてある長ーい名前、あれのことですが、をつけて回る。

 要するに、シッダルータがしてないようなことばっかりをしている。

 かくして坊主は、「院号」を書く字の腕を磨き、読経の声を磨き衣の色と寺の「格」でだます、これで「立派な御院さん」一丁あがりィ!というわけです(笑)。
 
蓮
 
 
私は、闇を破る月に照らされて、泥沼にこそ花を咲かせる白蓮華のように花を咲かせたい、との願いを蓮月という名に託す自分を、この世で最もかけがえのない存在として愛しています。
 
蓮月(れんげつ)さん
真宗大谷派僧侶
大阪府守口市覚了寺在住
1994年、覚了寺の蓮月さんを支える会が発足
1998年、覚了寺の蓮月と共に歩む会に移行
会報誌『覚了寺の蓮月と共に歩む会』を不定期で発行
ジャズダンス、モダンバレー、ヒップホップを踊るパフォーマー

 著書
『広大会(こうだいえ)』共著
『フェミニズム、宗教、平和の会』(報告集)
『枚方フリーゼミナール・活々と生きる』(自費出版)
『「住職」を追われた女住職』(BOC出版196号蓮月特集)他
・・『覚了寺の蓮月と共に歩む会』紙から・・
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 蓮月さんの文書活動の物量は圧倒されるものがあります。近年、発刊され続けているのは会報『覚了寺の蓮月と共に歩む会』。不定期ですが、毎号、興味深く読ませていただいています。

 この会報のなかにも『パンク坊主宣言』がしばしば、引用されています。蓮月さんが特に訴えたいところなのでしょう。ということで、以下に紹介します。

 ◆輪廻転生は仏教ではない

 『起信論』に述べてあるように、人々が物事に対して真実か虚偽かを見分ける目をもたなければ、諸々の魔・外道(道を外れている者)・鬼神に誑(たぶら)かされ惑わされる。または姿形を現して恐怖(くふ)させる。あるいは美男美女の相を現し、「さまざまな問題も、自分の心のもち方を変えれば悩みもなくなる」と説く。あるいは天像・菩薩像を現して、または如来像の姿で現れ、布施(施すこと)・持戒(戒律を守ること)・忍辱(にんにく/耐え忍ぶこと)・精進(真実の道をたゆまず実践すること)・禅定(精神を統一し安定させること)・智慧(真実の智慧を得ること)を説き、あるいは平等/空(一切実体というものがないのだからと、こだわらないこと)・無相(姿形にとらわれないこと)・無願(期待しないこと)・無怨/無親(怨だり、かといってやたら親しくしたりもしない)・無因/無果(因果関係を求めないこと)・畢竟空寂(最終的に一切の立場を捨てること)、これが真実の悟りなんだと説く。あるいは人々に、「前世」がどうだとか、未来がどうなるとか言う。他人の心を読みとる能力を得、弁舌巧みにならせる。

 よく人々に世間の名利の事に執着させる。…これらは皆、仏道ではないのであって、真の智恵ではない。(親鸞『教行信証』化身土末巻)

 もう少し解読すると、傍線で示した部分は、つまり「輪廻転生」は本来の仏教ではないと親鸞さんは言っているのです。

 ◆「偽予言者に心せよ」

『首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)』に仏(ぶつ)が述べているのだが、多くの魔たち、多くの鬼神たち、またそれらに群がる邪悪なもの、その仲間たちがいてそれぞれが「わたしは解脱者である」などと言うだろう。「私(釈尊)がさとりを開き、入滅の後、末法の時代にはこのような魔民・鬼神・妖邪が多いことだろう。世間に盛んに現れて、「師匠」「尊師」「教祖」となって、多くの人々を間違った方向に導くだろう。求道心(ぐどうしん)を失わせ、心を惑わせ自分の頭で物を考えることをなくさせ、心さえなくさせるだろう。彼らに巻き込まれたある家は一家離散となり、地獄の様相を呈して、真にめざめるきっかけを失ってしまうだろう(第8章)

 私なりに現代語訳をしてみたのですが、どうです? これは、今までに述べたオウムといい、「統一協会」といい、「法の華」といい、「ヤマギシ会」といい、現代の破壊的カルトを連想させません?

 これらをひと言で表すなら、「偽(にせ)予言者に心せよ」ということでしょうか。

 でも、もし誰かがカルトに囚われてしまったら、わたしのその者のために読経するくらいなら、心のなかで呼びかけます。「さあ、帰りましょう! 魔郷に停(とど)まるものではありません」

 人間を眠らせる、そんな所は一刻も早く脱却しなければなりません、と。
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